どうもです、NITARIです。

というわけで(どういうわけだ)激ハマり中のエディ・レッドメイン主演作「博士と彼女のセオリー」を観ましたので感想を書きます。

スポンサーリンク

映画「博士と彼女のセオリー」あらすじ

「博士と彼女のセオリー」は2014年に公開されたエディ・レッドメイン主演の映画です。

キャスト
  • スティーヴン・ホーキング : エディ・レッドメイン
  • ジェーン・ワイルド・ホーキング : フェリシティ・ジョーンズ
  • エレイン・マッソン : マキシン・ピーク
  • ジョナサン・ジョーンズ : チャーリー・コックス
  • ベリル・ワイルド : エミリー・ワトソン
  • ジョージ・ワイルド : ガイ・オリヴァー=ワッツ

スティーブンはケンブリッジ大学で物理学を学んでいた。彼は同じ大学で文学を学ぶジェーンと恋に落ちる。

ある時スティーブンは校内で倒れ、検査をした結果ALSで余命は2年だと告げられる。
絶望するスティーブンだったが、ジェーンは彼との結婚を望み、二人は結婚し、2人の子供をもうけた。

スティーブンの研究は順調に評価されていた。
しかし年々、ジェーンの疲れはたまる一方だった。

ある時ジェーンは母から、息抜きに聖歌隊への入るのをすすめられ、教会へ行く。そこで、ジョナサンと知り合い、彼に手伝いを頼むことになった。

映画「博士と彼女のセオリー」のネタバレ感想

うーむ、なかなかコメントのし辛い映画でした。
というのが、非常に普通の作品だったもので(笑)。

特に悪い映画というわけでもなければ、取り立てていい映画っていうわけでもなく、興味深く2時間は見終わるけれども特に余韻が残らない、というような映画でした。

でもまあそれでは解説にもレビューにも全然ならないんで、どうしてこのような平凡な作品になったのかを紐解いてみようと思います。

映画「博士と彼女のセオリー」のあらすじについて

「博士と彼女のセオリー」は取り立てて着目するような部分もない、非常に「普通な」作品でした。

映画を観る上でこれは全然良い事ではなくて、むしろ良くないことだと思います。
せっかく映画を観るんだったら、何かしらのインパクトを与えられたいものです。

「博士と彼女のセオリー」がそれほど面白くない作品になってしまった理由の一つが、この映画のあらすじというか支柱となるべきテーマの中途半端さがあげられます。

この映画はホーキング博士の半生を描いたものですが、それはあくまでもこの作品のあらすじであって、結局この映画で何を伝えたいのかが定まっていないところに問題はあるのだと思います。

ホーキングが素晴らしいっていう事なのか、ジェーンが頑張ったっていう事なのか、ホーキングとジェーンの恋愛がうまくいかなかったっていう事なのか、病気が辛いっていう事なのか?

よく、映画の「テーマ」とか「メッセージ」といった事が言われますが、平たく言えばそういう事。

私は別に全ての映画にテーマやメッセージが必要だとは思わないんですけど、要するに製作者側の表現の支柱となるものを感じられなかったっていえばいいのか。

おおむね、「ホーキング博士がすごく病気になってしまって非常に大変な思いをしたけれど、妻や周りの助けもあって研究は成功した。その努力を伝えたい。結局二人は離婚してしまったけれど」という事を言いたいのであろうけれど、それはテーマっていうよりはストーリーですからね。詰め込み過ぎなんですわ。

例えば、もっと思い切りジェーンを主役にして、ジェーンから見たホーキングに徹するのでも面白かったかもしれないし、逆にホーキングと研究にばかり焦点を当てて、研究者としての興味を煽る作品にし、完全にサイドストーリーとしてジェーンを登場させてもよかったかも。

この映画には嫌なやつとか全然いなくて皆いい奴で、彼らの幸福を邪魔する存在は病気くらいしかないわけですが、「そんなわけあるかーい!」と思うわけです。

実際の彼らの様子を知っているわけではないので何とも言えませんが、人間ドラマとしてかなり美化されている感じがするので少々つまらないのかもしれません。

映画「博士と彼女のセオリー」の演出

同じことがやはり演出にも見られます。

この映画の演出は、それこそ「セオリー通り」というか誰が撮影してもこんな風になっただろうなあというようなものでした。

悲しいシーンには悲しい音楽が流れ、楽しいシーンには楽しい音楽が流れる、というような。

ホーキングの研究が認められて友達と自宅でパーティーをするシーンがありますが、途中で彼はいたたまれなくなり、2階の自分の部屋に戻ろうとしますよね。
しかし、階段を簡単に登れなくてはいつくばってしまう。

このシーンはとても印象的でいいシーンになりそうだな、と思ったのですが、残念ながら音楽の使い方が大変に退屈でした。悲し気な音楽を載せてしまったので。

こういう時は、ぎりぎりまで心情を語るような音楽は登場させないほうがいいです。
まあ、今の映画監督にありがちなんですけれど、せっかちなんでしょう。なるべく早い段階で音楽などを使って心情や状況を語りたくなるのでしょうね。

そういうシーンがいくつもあって、退屈だなあと思いました。

映画「博士と彼女のセオリー」と「リリーのすべて」の比較

この映画は、同じくエディ・レッドメインの「リリーのすべて」と非常に作りが似ていました。というわけで、いやが上にも比較して見てしまいましたね。

リリーのすべて」は素晴らしい作品でしたが、似たような作りの「博士と彼女のセオリー」はどうしてダメだったのか?

これは非常に伝えるのが難しいのですが、やはり「博士と彼女のセオリー」がどうしても、人間ドラマの解釈として底が浅かった、といえるのかもしれません。

先ほども言いましたが演出側が、映画の目的をホーキングの場合は「病気と、それに向き合うホーキングや周りの人々」に留まってしまったのは問題がありました。
結果的に「ホーキングはこういうすばらしい方だった」「ジェーンは彼を良く支えた素晴らしい人だ」「ジョナサンいいやつ」といった、彼らに対する感想しか生まれません。

一方で「リリーのすべて」は、「女性になりたいという男性と、それに向き合うリリー、そして周りの人々」をモチーフにしながら、その先に「人間とは」「愛とは」「性とは」「生とは」といった、もっと踏み込んだテーマを描いたことにあるのだと思うんですよ。

(もちろん、ホーキングは病気になってしまった人で、リリーは病気ではありません。ですが、一人の人間に大きな変化が生まれ、それに翻弄されるという意味で括っています)

ストーリーもテーマも非常に似たものを描きながら、最終到達点をどこに見据えているかで全く作品の意図というのは変わるのだといういい例だと思います。

映画「博士と彼女のセオリー」の役者について

スティーブン・ホーキング役エディ・レッドメイン

この映画は、当然のことながらあまりにも主演のエディの演技がすごすぎる。あまりにもすごすぎて、絶句です。

凄すぎるあまり、エディの存在だけで映画を語ってしまいたくなるほどです。
そして実際、彼の演技がこの映画の評価を格段に上げているだと思います。

しかし実際は、エディに限らず役者はあくまでも映画の一つのコマに過ぎないので、彼の演技がすごいからといってこの映画が格段に良くなるかといえば、別にそうではないんですよね。
用は、監督の裁量というかセンスが重要なのであって。

その辺を誤解するのは危険だな、と思います。

ジェーン役のフェリシティ・ジョーンズ

フェリシティ・ジョーンズは顔がかわいらしいのですが、何を見ても別に演技はうまくないな、と思います。

どの映画を観ても大体同じような仏頂面をしているだけで、役に対する解釈どころではないです。

この映画でも一応形としてはアカデミー賞にノミネートされていますが、エディがあれだけの熱演をしたにも関わらず、フェリシティは髪型が変わるだけで学生時代から一貫した演技で時間の流れを全く感じさせない、全然歳とらない演技でした。

というわけで演技の評価としてはフェリシティは全然ダメなんですが、私は彼女の顔がとってもキュートで好きですので、今後も彼女の作品を見るのは楽しみです。

特に「インフェルノ」を見た時には、その美しさに惚れ惚れしました。演技はまずいけど素敵な女優さんです。脱皮してもらいたいものですね。

(ちなみに、彼女の出世作は「今日、キミに会えたら」という作品だという事を知りました。面白そうなのでAmazonプライムで見てみようと思います)

まとめ

というわけで、いかにも平凡な作品となってしまった「博士と彼女のセオリー」ですが、別に取り立てて悪いというわけでもないですし、エディの演技はそうはいっても一見の価値があると思います。

そういう意味では、見て損はないかと思います。得るものはないですが。

スポンサーリンク