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「天気の子」ネタバレ感想と解説。この映画が伝えたかったテーマとは?

どうもこんにちは、NITARIです。

新海誠監督の最新作「天気の子」朝イチで観てきました。感想です。

新海誠監督作「天気の子」あらすじ

雨が降りやまない、ある夏のこと。

高校一年生の主人公・森嶋帆高は、離島の家から家出をして東京にやってきた。
お金もなく、人々も冷たい東京だったが、絶対に家には帰りたくない。

ある時、帆高はフェリーで自分の命を救ってくれた恩人・須賀からもらった携帯を頼りに、出版社へ訪ね、そこで雇ってもらうことに。

取材や雑用を任された帆高は、楽しく暮らしていたある日、街中でやくざ風の男に絡まれている少女を見つける。

彼女は、お金がなくて食べるものがなかった時に、ハンバーガーをこっそりくれた少女だった。

迷惑そうな彼女を助けて廃ビルへ逃げ込んだ二人。
そこで少女・天野陽菜は帆高に、不思議な能力を見せる。

それは、祈るだけで雨模様を天気にするという能力だった。

  • ネタバレをしますので、まだ見ていない方はご注意ください。

「天気の子」のラストについての解釈

この作品は、「え?これってどういうことなの?」というラストなんですよね。私はそうでした。
「え、これっていいの?」みたいな感じ。

この作品を見た後で、いろんな人がいろいろな解釈をするのでしょう。
ここでは私なりに解説していこうと思います。

「天気の子」で描かれた、自分勝手に生きてゆくマインド

この作品で一つのポイントとなっているのが、自己犠牲です。

陽菜はあるとき、たまたま偶然、「雨を天気にする力」を手に入れます。
その力を使って人々の願い通り、雨模様をはれにしてゆく。その間は彼女は自分が「人柱」であることに気づいていません。

それがあるとき、自分が「人柱」であって、やがて犠牲となってしまうということに気が付きます。

陽菜は自分が人柱だと知ったら力を使わなかったのかもしれませんが、人柱であることに気づいた時にはもう時すでに遅し。天に召されて(文字通り)しまうわけです。

それを知った主人公の帆高が、陽菜がしたのと同じように天気の子となって彼女を助けに行く。

陽菜は自分が人間界に戻ったら雨は晴れないことを知りながら、最後の決断をするのです。「雨でもいいから一緒にいたい」という。

つまり、陽菜と帆高は最後に「自己犠牲をやめて自由に生きる」という決断をするわけです。

これは実は現代社会において少し珍しい方向のメッセージです。
なぜかといえば、今の日本はどこを向いても「人様の迷惑になることはするな」というのが鉄則となっているからです。

「人の迷惑にならない生き方」と「自己責任」論

現代の日本の社会は、「人の迷惑にならないように生きなければならない」という常識が非常識なほどに蔓延しているように思います。

「俺は人の迷惑にはならない」という自負心は、一方で「人に迷惑(というか世話)にならないと生きていけない」人たちを排除する考え方のようにも思います。

この言葉と対になっているのが、「自己責任」論です。
どんどん貧しくなる日本社会において、ちゃんとした収入を得て生活できるひとは少なくなっています。

貧困に関してはこの映画でも、子供たちや須賀などの様子を通じて描かれていることですよね。

貧困問題は決して自己責任ではないのに、それを「自己責任」と片付けてしまう。「だって俺はちゃんと努力して生きてきたし、人に迷惑はかけていないもん」

開きなおって生きてゆく決断を!

で、アニメの話に戻ります。

主人公たちが最後に決断したことは、自分勝手なようにも見えますよね。
「自己犠牲をやめる」、自分たちのいいように生きてゆくのだという決断によって、世界は大きく書き換えられてしまうわけです。

私自身は人に迷惑を積極的にかけたいとも思わないし、人に積極的にかかわりたいとも思わない(というか、全精力を挙げて人と関わらない生き方を選ぶタイプ)ではありますが、実際こうも日本国内で自己責任論がささやかれると、「少しくらい迷惑かけたってお互い様じゃん」と思わずにはいられません。

だからこの作品の子供たちがこのような決断をしたことは、驚くことではあるけどもある意味今の日本社会においては非常に小気味いいものだったと思います。

まあ、この映画の場合は本人たちの決断が「お互い様」だとはさすがに思いませんけどね(笑)

今までの作品では、自分を犠牲にして世の中と調和を取る作品が多かった(そして感動を呼ぶ)なかで、このように自分勝手な決断は非常に面白かったと思います。

須賀の決断について

主人公の帆高も陽菜を助けるためにだいぶ自己犠牲を払っているように見えますが、この作品で陽菜の次に目立った自己犠牲を選ぶ人物は須賀です。

最終的に須賀は自分の望みを犠牲にして帆高を助けます。
私は映画を見ていてこの須賀の決断は正直理解できませんでした。やってることも理解できませんが、映画としてこの決断を美化しているように見えたからです。

実際、須賀が最後に帆高を助けたことで、彼の望みは絶たれてしまったのですが、彼は後々会社を大きくして子供とも仲良く幸せに生きています。

どの段階での選択が、後でどのような結果になるか、それによって幸せがどうなるかは、きっと自分次第なんだろうという結末は納得できました。

須賀が最後に「お前、気にするなよ」というのは、雨天を引き起こしたと思われていることに対してだけではなく、須賀が望んでいたことを邪魔する結果になってしまったと帆高が思っているなら気にするなよ、俺は幸せだ、と言っているようにも見えました。

新海誠監督のインタビューを読んで

とまあ、ここまではとりあえず私の解釈です。

パンフレットを後で読んだら、私が思っていたことと少し違うこと(全く違うわけではないけど)を思い描いていたようなので、その部分も記述しておきます。

「やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。別の言い方をすれば、調和と取り戻す話はやめようと思ったんです。(中略)調和が戻らない世界で、むしろその中で新しい何かを生み出す物語を描きたいというのが、企画の最初の思いでした」

新海誠「天気の子」パンフレットより

自己犠牲の話だと思っていたのですが、新海誠は環境問題や「不調和の中で生きてゆく」ということだったようです。

この作品と環境問題が結び付くような感じはそれほど受けませんでした。まあ、説教臭く環境問題を唱えるよりはずっといいと思います。

彼が言っている「調和が戻らない世界で新しい何かを生み出す物語」というのも、ちょっとそういう作品には思えなかったなあ。理解が足りなかったのかもしれません。

「天気の子」の感想

とまあ、ここまででも十分私の感想が入っていますが、以上は一応私の解釈の解説。ここから私がこの映画をどう思ったのかを書いていこと思います。

ここまではかなり好意的な雰囲気で書き進めてきましたが、そうですね、正直言って私はこの作品がすごく好きかと言われれば、なんとも言えませんね。

「天気の子」のストーリーについて

それは、まず第一に話があんまりおもしろくなかったんですよね。

オープニングから20分くらいは何が言いたいのかわからない、退屈でスローな展開が待っています。

新海誠のインタビューによると、帆高がお金がなく東京をさ迷い歩くということや弟と暮らしている陽菜の生活の苦しさから、現代の若者たちの貧困問題を取り上げていたようですが、何しろこちらはどういう話なのかが全く分からない状態で探り探り見ているので、「若者の貧困を描いている」ということは非常に伝わりづらい。

そういう部分がこの映画には結構多くて、ストーリーが結構薄っぺらいのに語りたいラストばかりが肥大していて、つかみどころがなかったんですよ。

新海誠の作品はいくつか見ていますが、この作品はヒットを目的としているためか、初期の作品のように漠然とした思想や画面だけで表現する思い切りが見えなくなったように思います。

「天気の子」も前半は、どちらかといえば以前の新海誠作品に近いようにも思えますが、何せ長編作品だしストーリーものなので、そういった社会問題をピックアップするのかストーリーを伝えるのか、そのあたりが少々どっちつかずだったように思います。

後からインタビューを読むと、ラストありきの作品であとから中身を埋めていったようなのですが、本当にその通りの印象で、ラストまでは正直いまいち退屈でした

特に不必要なのは、帆高が銃を手に入れるところ。
そもそもこの作品は雨女の下りがファンタジーなので、それ以外のところは徹底してリアリズムであるべきだと思うんですよね。

ところが帆高が銃を手入れるところで話が飛躍してしまった。これはちょっとなーと思ってしまいました。

「天気の子」の誰に感情移入をするのか?しなくていいのか?

先ほども言ったように、この作品は「貧困」や「環境問題」「家出少年」など社会問題を扱っているのですが、それらのテーマがいまいちストーリーにうまくはまっていないように感じました。

あまりストーリーがうまくいっていないので、登場人物の誰に対しても感情移入できないんですよね。

別にすべての映画で感情移入する必要もないし、新海誠の初期作品などを見ていても、表現を重視していて感情やドラマは一歩後ろにあるという方法で制作されているので(もちろんベースは基本ボーイミーツガールですが)、見ていて納得もできるのです。

が、「君の名は。」以降はむしろドラマ性(ストーリー)重視の作品になっているように思えるので、登場人物に感情移入とまでは言わなくても、感情を理解することは必須のように思います。

ところが、正直言ってこの作品ではあまり登場人物に共感も理解もできない。彼らが何によって突き動かされているのかが私にはよくわからなかったんですよね。
主人公たちの素性を描かなかったのが原因だと思います。

帆高の家出の原因は一体なに?

この作品では帆高がどうして家を出たのか説明は全くありません。
最初の時点でなかったし最後の最後まで結局全くないんですよね。

帆高に感情移入できない、最も大きな理由がこれだと思います。

とはいえ、私はこの試みに関しては、全否定はできません。
昨今の映画作品はなんでもかんでも説明しようとしすぎますからね。

子供がどうしても家を出たくて家を出た、ということに理由なんかない。
見ている人でも想像できるでしょう、ということでその部分を描かなかったことは、非常に勇気のあることだったと思います。

そういう思い切ったことができるのは素晴らしいです。

ただ、「天気の子」に関しては、どうしてもキャラクターが薄いように思えてしまうんだよね。
帆高もそうですが、陽菜もそうです。

もしもこの主人公二人が、キャラクターだけでも語られない過去を感じさせる重みのあるものになっていたのだったらよかったのですが、正直この二人は特に目新しい魅力がなかったので(瀧くんと三葉と特に違いが判らないくらい、既視感のあるキャラだった)。

過去を描かないのであればその分、キャラを濃くしないとだめですね。

新海誠が描きたかったのは天気ではなく気候なのかも

さて、先ほどもちょっと出てきましたが、「天気」についてお話したいと思います。
私はこの作品での天気の描かれ方が、私の期待とは少し違っていました。

というか、インタビューを読んでも思ったことなんですが、新海誠はそもそもあんまり「天気」の事を書こうとしていなくて、あくまでも「気候」というか「地球環境」という方向に興味があったのかなーと思います。

私自身は天気の話だと思っていたので、それは私が悪いのかもしれませんがちょっと合わなかったですね。

私は天気の話だと思っていたので、天気をつかさどる能力を手に入れた少女は、たぶんそれはなんだろうと思っていました。

天気の話は、宗教の話に直結します。古代から天気と神は同じものだと考えられていました。
もともと陽菜が「天気の子」の能力を手に入れたのも、廃ビルの屋上にある祠(鳥居)によってなので、陽菜がきっと神になるのだ。という宗教的な話なんだと思ったんです。

そうなると、きっとかなり哲学的な方向に話が展開するだろうと。
しかし、新海誠のベクトルは全く逆で、むしろ彼が描きたかったことは「環境問題」つまり「科学」であり、「宗教」「哲学」とは全く逆になります。

もちろんこの作品はファンタジーなので、科学に基づいた作品ではありませんが、環境問題のメタファーとなっている以上、私が期待したような哲学的な作品にはなりえないのでした。

私が期待した方向とは違ったなというところがちょっと拍子抜けでした。まあ、私が勝手に期待していたので、これはさすがに新海誠の落ち度ではありません。

まとめ

というわけで、「天気の子」は最終的にはテーマとしては面白かったけど、実際好きかどうか、面白いかどうかで言ったら内容がそれほど面白くはなかったかなーっていう感じですね。

ただ、この作品を高く評価する方がいるのだとしたら、それも納得できないとは言えません。思い切った作品だとは思います。

あと、パンフレットには新海監督自身の言葉で映画が解説されていて読みごたえがあるのでおすすめです。

最後になりますが、「天気の子」はすでにノベライズ本など発売されていますので紹介しておきます。

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