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「差別」と「表現の自由」の違い、あなたはわかってますか?

「ポリティカル・コレクトネス」っていう言葉があります。日本ではまだまだあまり聞きなれない言葉かもしれませんが、世界では非常に重要視されている考え方です。

今回は「ポリティカル・コレクトネス」から、世の中の「差別」「表現の自由」って一体何?という事を追求していこうと思います。

「表現の自由」と「差別」についての考え方

Yahoo!コメント欄を閉鎖しろ!

現在、Yahoo!ニュースのコメント欄を閉鎖しろ!と主張する人たちがいます。
理由はとにかくコメント欄が差別主義者たちに乗っ取られた状態になってるからです。

確かに、Yahoo!コメントを見ると、中韓に対して厳しいコメントが多く見られます。
ちょっとでも中韓に関わる事柄だった場合、必ずヘイトコメントが上位を閉めています。

それどころか、中韓に全く関係のないニュースに対してもヘイトコメントが上位にランクインすることすらあります。

ヘイトコメントをしている人たちは、こういったコメントをする権利は、「表現の自由」という事で認められている、と主張しています。

一方でリベラル派たちが、ヘイトコメントは表現の自由には当たらない、という事で、ヘイトコメントのプラットフォームになっているヤフコメ自体を削除すべきだ、と主張しています。

欧米ではSNSでのヘイトの対策がかなり厳しくなっていたと聞きました。
過去形にしたのは、特にトランプが大統領に就任してからやや逆行の向きがあるからです。

これに関しては後述します。

「差別」と「表現の自由」の違いは?

では実際、どこまでが差別で、どこから表現の自由なのか?

平成25年5月に、ヘイトスピーチを規制する新たな法律が成立しました。しかし、現在は違反したところで罰則があるという事ではないようです。

いずれにしても、「差別は人権を侵害する」という事は「表現の自由」には当たらないという結論が法律上でもなされています。ただ、どこまでが「表現の自由」で、どこからが「差別」なのか?というのは、意見の分かれるところです。

私の解釈する「表現の自由」は、何ものにも侵されることのない権利であって、それに対するところは表現に対する「圧力」です。

偏った考え方を持っていても、表現の自由は守られています。しかしながら差別的発言はそれには当たりません。

差別発言そのものが人権を侵すからです。

ただ、このような問題は、やはり線引きの難しい問題だと思います。

一方で、大きな問題になるのは、現在は明らかなヘイト的な発言も、臆することなく口にする人が非常に多い事です。

逆に、ヤフコメを閉鎖することに関して、それは「表現の自由の規制」に当たるのか?そこが議論されている大きな問題です。

ポリティカル・コレクトネスとは

さて、では冒頭にもお伝えした、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉について少し説明しようと思います。

Wikipediaによると、

日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・障害者・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す -wikipediaより-

ということで、英語圏ではよくつかわれている言葉です。

これはあらゆる立場の方に言えることで、例えば男女差別や年齢差別、人種差別、宗教差別などどんなことでも中立性を重んじる考え方の事です。

しかしながら日本ではこの考え方がまだまだ甘いので、さまざまな問題が起きて色んな所で炎上しています。例えば……

黒人に扮した黒塗りのギャグの何が不味いのか

以前、ダウンタウンが顔を黒塗りしてエディ・マーフィーの真似をしたことが炎上したのを覚えてますか?

これなんですけど、日本ではやっぱりというか、「何が悪いの?」という意見が圧倒的に多かったように思いました。

これの何が悪いかわからない人は、とりあえず「別に黒人をバカにしたわけじゃない」「エディを笑ったのではなくて浜ちゃんを笑っただけ」という意見だったようです。

しかし、身体的特徴をあげつらって笑いものにする文化という事は、アメリカや他の国では大きな長い間大きな問題になってきました。

日本では黒人差別の歴史がないので(黒人がいなかったからという事であって、差別をしていないという事ではありません)、長く議論されてきた海外においては正直言って「今さら」な「ブラック・フェイス」がタブーであることを知らなかった、という事になるのかもしれません。

この時のダウンタウンの炎上に対しての日本人の反応の多くは、「黒く塗るのがなんで差別的なのか」「じゃあどうやって黒人の真似をすればいいのか」という意見でした。

「見た目の特徴だけが誇張されている」ことがブラック・フェイスの問題点です。その意図がなくても、結局は黒人が笑われていると感じる人が非常に多いわけです。

私自身の意見を言えば、そもそも物まねの本質的にはマネする相手をディスる意味が必ずあると思うわけです。そこに愛があろうがなかろうが。

身体的特徴を際立たせる真似は言語道断、という事です。それは何も黒人だけではなく。

表現の自由と差別の違いについて

表現の自由となにが違うのか?という点において、ジャーナリストの津田大介がこんなツイートをしていました。

津田氏は後のツイートで、「僕もヘイトスピーチの法規制には反対です(やるなら欧州のようにプラットフォーム事業者に削除体制を強化させる間接的なものに限定すべきでしょう)」といっています。
というのは、ヘイトスピーチは人権侵害ではあるが、それを個人レベルで直接裁くのは至難の技だということもあるのではないかと思います。それではたしかに言論統制と言われてしまう事例も生まれるでしょう。

私自身も、法を司る国家を過信すべきではないと思うので、その規制は難しいと思います。

ただし、Yahoo!ニュースのコメント欄のように、明らかにヘイトのプラットフォームになっている場合はその限りではなく、そもそもYahoo!がちゃんとした企業だったら、自分から統制をとるとかなんかすべきなんじゃないの?ということです。

まぁ、Yahooっていう日本の企業はニュースを見ていても驚くほど意識も品性も低いのだとおもうし、Yahooに限らず日本の国家全体の低意識には驚くばかりです。

差別主義者のいちばんの問題点

私が思っていることですが、差別化主義者は、「ヘイトスピーチは人権侵害だから止めるべきだ」という意見に対して「いや、表現の自由でしょ」と言ってる人が多いんですよ。

つまり彼らには「差別してはいけない」という意識すらなく、「自分達は差別主義者」とかいってるとこですよね。

なんというか、うっかり差別してしまう低リテラシーから来る差別もあるとおもうんですよ。そういう方だったら、「いや!自分のしていることは差別ではない!」とか言って、自分の正当性を主張しながら差別すると思うんです。

しかしながら、「差別はオレの権利だから俺は思う存分差別させてもらう」とか言われてしまうと(男にせよ女にせよね)、差別してはいけないという事から話を始めるのは大変難しいのではないか。

例えば、「いじめをしてはいけない理由」を人に教えるのは難しいよね、ということ。当たり前すぎるからです。

日本には「ポリティカル・コレクトネス疲れ」は無い

先ほどの津田氏のツイートの返信で、このようなものがありました。

これに対して津田氏は、「日本はポリコレがかなり弱い気がするので、「ポリコレ疲れ」なんてものが日本にあるのかな」と返答しています。
欧米では「ポリティカル・コレクトネス」がデフォルトになっているんですね。誰もがとりあえず表立っては差別的なことを言えないとか、そういうことです。

トランプ大統領が、大勢の予想に反して(おそらく支持者ですらも)当選してしまった背景には、「ポリティカル・コレクトネス疲れ」があったことはよく言われていました。
おそらく、一般の方々にもかなり根付いていた考え方だから、あれはだめ、これはダメという考え方につかれてしまった反動ではないかということですよね。

だからトランプのようにめちゃめちゃ人種差別みたいなこと言ってる人に、だれにも言えないけど思ってた人はかなりスカッとしてたんだろうと思います。

そういった意味でも、トランプの当選は本当に時代としては残念としか言いようがないものだったことはわかりきっているわけですね。

ちなみに、ちゃんと意識を高く持っている人にとって「ポリティカル・コレクトネス」なんて当たり前のことだ、と思いますけど、そういう方は逆に今度は世間のポリコレを監視する側に自ずと回らなければならないので、特に意識の低い日本においては結構疲れることは疲れますね。

日本のテレビが炎上する理由

よく、企業が何か広告を打ったりドラマや番組でポリティカルコレクトネスに差し障るような表現をした時に、炎上した後にすぐに謝って取り消しますよね。

で、最近ではそれが怖いあまりに、思い切った表現ができない、という事で製作者側のストレスが高まっているように感じます。

例えば、ドラマではヤクザがシートベルトを締めたり、あまり暴力的な表現ができない、とか。その点について、よく役者たちや製作者側最近は文句を言っていますよね。

でね、私がおかしいなと思うのは、指摘されたことに対して必ず謝罪していることです。

別に、誰かがシートベルトしないとか、吸い殻をポイ捨てするとかそう言うのってキャラの表現として普通の事だと思うんですよね。

なんでそういう事と、差別的表現とを一緒くたにして、「表現の幅が狭くなった」って言ってるのかって、たぶん製作者側が本当は何が問題で何が問題ではないかを分かってないからです。

しっかりと、人権侵害に当たらない作品を作るのであれば、ある程度コンプライアンスを無視した演出であっても「炎上しようが、表現の自由だ!」と言えるはずです。

しかしながら、差別的表現に関しても良し悪しが分からないので、指摘されたら表現の自由の範疇であってもとりあえず謝る、という構図ができてしまっているわけです。

まとめ

以上が私が考えている、「表現の自由」と「差別」についてでした。

日本にいて心から残念だな、人権後進国だな、と思うのは、そもそも人権や多様性を受け入れる、という事に対して全然興味がない事

「人として、立派でありたい」とか「正しくありたい」という考え方を持っていないばかりか、そういう考えを持っている人を「意識高い系」とか「メンドクサイ人種」と思ってしまう節があるとこです。

嘘でもいいから、人に対してもっと優しくなれたらいいのにとしか思えませんね。