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恩田陸小説「蜜蜂と遠雷」あらすじ感想。天才たちの華やかな競演を楽しめるか。

どうもこんにちは、NITARIです。

直木賞を受賞した恩田陸の小説「蜜蜂と遠雷」を読みましたので、感想です。

小説「蜜蜂と遠雷」あらすじ

16歳の風間塵は、音楽大学も出ていないばかりか、演奏歴もコンクールの出場歴もなく、自宅にピアノすらない少年だった。

彼がコンクールに出場できたのは、ピアニストである故ホフマンに師事していたからである。ホフマンが弟子をとることなど絶対にありえなかったため、審査員たちは驚愕する。

現在、二十歳の栄伝亜夜はかつて天才少女として5歳でデビュー。そのあと数々のコンサートを開きCDも出していたが、マネージャーでもあった母の死後のコンサートからピアノを弾けなくなりキャンセルした過去を持つ。

彼女は表舞台から去り、趣味で弾いていたところを音楽大学の浜崎学長に見いだされてコンクールに出場することになった。

まだ自分には可能性があるのか?
自問自答を繰り返す亜夜はめまぐるしい進化を遂げながらコンクールを勝ち進んでいく。

現在ジュリアード音楽院に在学中のマサル・カルロス・レヴィ・アナトールは優勝候補である。天才と名高いピアノの腕に加えて容姿端麗なことも彼の人気につながっている。

マサルは幼少期に日本でピアノに出会った。
そのきっかけとなった少女の存在は忘れられない。

実は、同じコンクールに出場している栄伝亜夜がその少女だった。

高島明石は現在28歳のコンテスタントである。
かつて音楽大学に通っていた明石だが、卒業後は楽器店に就職し妻子を持っている。

コンクールに出場するにしては高年齢と言われる立場だが、明石は最後の挑戦だと思ってコンクールに出場を決めたのだった。

小説「蜜蜂と遠雷」の感想

かなり評価の高い作品だったのでそれなりに期待していたのですが、期待しすぎたのかあまり好きではありませんでした。

いくつかの理由がありますので、書いていこうと思います。

小説「蜜蜂と遠雷」の音楽表現

私は7年ほどピアノを習っていた時期があって、その後も現在に至るまでちょこちょこと浅くクラシックを聴いている、いわゆる「にわか」です。

知識としては、「蜜蜂と遠雷」に出てくる作曲家の9割くらいを知っていて、どの楽曲かまでは分からなくても、いつくらいの人でどんな種類の曲を作っているのかをざっくり理解している、という程度です。

全くクラシックを聴かない人に比べてちょっとは聴くよ、という人は大体私くらいの知識なのではないかな、と思います。

一方で、たぶん世の中で「ちょっとは聴くよ」という人はあまりいないのかもしれません(私はあまり出会ったことがありません)。

だからこのような小説では、全くクラシック音楽を知らない人にも伝わるように、音楽を表現しないといけないんですよね。

これは、かなり難しいことだと思います。

この作品は、三年に一度と言われている芳ヶ江国際ピアノコンクールの様子を最初から最後までじっくりと書いている作品です。

主要な登場人物は4人の演奏はすべて書かれていますので、ざっくりと50曲以上を文章で表現しています。(もちろんほとんど飛ばしている楽曲も含めてですが)

これはすごい事だな、と思います。
普通に考えてかなり無理目なことに挑んでいますよね。

そしてその音楽表現の豊かさが、まさにこの作品が評価されたところだという事前の認識でした。

しかし、私はまずこの音楽の表現が心に響いてきませんでした。

恩田陸の表現は非常に直接的でわかりやすいのですが、音楽的かといえばあまりそのようには思えません。
かなり勉強したんだろうな、と思わせる部分はありましたが、表現自体は非常に平凡でした。

なぜかといえば、音楽を理論ではなく、映像や画像としてこちらに伝えようとしていたことが大きな問題のように感じます。

特にそれを感じたのは、二次審査の課題曲、「春と修羅」の表現です。
この曲は設定としては宮沢賢治の詩をもとにした架空の現代音楽で、途中で自作のカデンツァがを披露する部分がある、ということでした。

架空の曲なのでとにかく表現は難しかったと思います。
特にカデンツァの部分はそれぞれの色に表現するために、一人一人に物語を乗せて「映像的に」表現しようとしていました。

私にはそれが滑稽に思えてしまいました。
そもそも存在すらしていない曲の自作の部分を表現するのに、よりによって彼ら一人一人の「物語」、つまり「劇中劇」を作ってしまうとは思いませんでした。

わかりやすくて読みやすくはあるのですが、音楽そのものの未知なる哲学のようなものは全く伝わってこず、ただひたすら恩田陸の曲の解釈の説明をされても心には響いてきません。

あまりにも退屈なので、この辺りはさらっと読み飛ばしてしまいました。表現がきれいではないと思います。

多分、恩田陸が実はあんまり音楽をよくわかってないか、とても感覚がダサいのではないか?
こういう事、平野啓一郎でもさせたら(それほど作品を読んでいるわけではないのですが)全く別の、色彩豊かな作品になったのではないかと思います。

恩田陸ダサい説が確定したのは、よりにもよってクライマックスで「スター・ウォーズ」を表現に用い始めたときでした。

この表現は二回ほど出てきますが、最初私は「ディスり」の意味で用いているのかと思いました。

しかしながらそうでもなかったようで、よりによってプロコフィエフを「スター・ウォーズ」と表現してしまうダサさ。

NITARI
NITARI
これはダサすぎる。

私はスター・ウォーズが好きではないから言っているわけではなく、たとえ好きな映画(ロード・オブ・ザ・リングとかね)を引き合いに出されたとしても「だせぇ…」と思います。

ディズニー好きな友人がパリに行ったときに、「どこもかしこもディズニーランドみたいだった!」と言った時の「ダサい」の感じに似ていますね。

本人がダサいから表現がダサくなるのは、ある意味必然かもしれません。

小説「蜜蜂と遠雷」のキャラクター

ダサいのは音楽表現だけではありません。
キャラもたいがいダサかったです。

主人公は4人いるわけですが、それぞれが絶妙のダサさをはらんでいる。

まず、かつての天才少女の栄伝亜夜は、「かつての天才少女」という部分が非常にダサい。浅いというかわかりやすいというか、漫画みたいですよね。

そしてマサル。めちゃくちゃかっこいい王子様っていうところにもダサさがにじみ出ていますよね。

しかもそれがたまたま偶然、亜夜の幼馴染だったという展開も漫画っぽくていい感じにダサい。

ただ、圧倒的にダサい存在として君臨しているのは風間塵だったと思います。

弟子をとらなかった巨匠が死後に残した天才・風間塵というキャラ設定自体がダサいのに、そのうえ彼の純真無垢な感じは完全にスベっている。
恩田陸は漫画原作とか書いたほうがいい。

私は「ピアノの森」は読んでいないのですが、登場人物に似ている人がいるみたいですね。
それ以外にも全体的に「ガラスの仮面」と「のだめカンタービレ」を持ち合わせたような雰囲気で、漫画としては大好きですが小説にしたらかなり薄いんだよねーと思いました。

唯一、高島明石は興味深い人物に成りえたかもしれないのに、天才に比べるとあまりにも平凡で何の魅力もなかったし、むしろこの人いらなかったんじゃないか?全然描き切れていないし…と思いました。

どちらかといえば、高島明石を主人公にして構成した方が小説としては面白かったかもしれません。

明石に関しては、最終的に「春と修羅」のカデンツァで特別賞を得るわけですが、ここで明石に花を持たせようとするセンスのなさとダサさにがっかりしました。

私向きの作品ではなかったですね。ダサい小説は嫌いなんで。

小説「蜜蜂と遠雷」は何を言いたかったのか?

そもそも、私にはこの小説が一体何を表現したかったのかがよくわかりませんでした。

だって、主人公たちはもれなく天才。
天才たちがいろいろと悩んで葛藤するという話ですが、やっぱりどうしても「天才」なので、我々一般人とは全く別の世界の人間です。

つまり、この小説を読んで共感する人は別にいないわけですよね。
社会的に特に問題的しているようにも思えませんし。

ということは、やっぱり音楽の表現を読ませる作品だったのかな、と思いますが、そこへきてプロコフィエフを「スター・ウォーズ」と表現してしまう程度の浅さを発揮しています。

ストーリーとしても、天才同士の幼馴染の恋模様とか、どんどん覚醒してゆく元天才少女とか、完全に漫画の世界のようで、小説として何がしたいのかさっぱりわかりませんでした。

私は基本的にめちゃくちゃ漫画が好きですが、小説も好きですし、全く違うメディアなので同じようなことをされるとドン引きしてしまいます。

音楽は音楽であり、決して映像や絵ではないので、音楽を映像に翻訳して伝えようという行為自体が私にはちょっと理解できませんでした。

音楽を扱った小説は難しく、納得できる作品はそうはないでしょうから、意欲作だとは思いますし最後までサラサラと読めたことに関してはすごいな、と思いますが、それっきり、もう二度と読みたいとは思いません。

まとめ

という事で残念な結果に終わりましたが、もうすぐこの小説は映画化されるそうですね。
映画化に向けて小説を読んでみた、というところです。

かなり映像化が難しい作品のように思えますが、映画は映画として楽しみです。
マサル役の森崎ウィンがすごく好きなので!