「人それぞれだよね」という良い方はどんなときにも使うものだけど、日常生活ではついついそういう考え方がうっかりなくなってしまいがちになるので、思い直してみようと思った。

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本当の「人それぞれ」を考える

私の好きなバンド、SEKAI NO OWARIの「Dragon Night」という曲の中に、こんな歌詞があります。

人はそれぞれ「正義」があって
争いあうのは仕方ないのかもしれない
だけど僕の嫌いな彼も
彼なりの理由があると思うんだ

この歌詞を私は非常に好きで、何かがあるたびに思い返します。

SEKAI NO OWARIの歌詞はこれ以外にも、心に響くものが数多くある。
この思想はどこから生まれたのかと、私は手に入るだけのインタビューを手に入れてとにかく片っ端から読んでいました。

私もこの歌詞を書いた深瀬慧と同じようにものを考えようとしているし、実際に同じような考えだなと思うことも非常に多いんですよね。
だけど、やっぱりどこかで、誰かの事を責めたり、自分の意見こそが正しいと思おうとしたりすることがあるっていう事に気づきました。

「自分こそが正しい」という誤解

例えば、今の世の中では「多様性」を重んじる風潮が強くなっています。

私自身は昔から学校内などで浮いてしまうことが多くて悩んでいた時期もあったし、もしも世間がもっと多様性や自由を重んじる風潮だったら、私はたぶんもう少し違った道を歩んでいたのかもしれないな、と思うこともあります(そうでもないこともありますが)。

私は人種の多様性にしても、性の多様性にしても、生き方・働き方の多様性にしても、私はどんな多様性も受け入れるべきだと思うし、海外に比べて日本の多様性を受け入れられない体質にかなり我慢がならなかった。

で、先日こんなツイートが回ってきました。

この話は結構がっかりして、本当に最低だなクソだな、と思ったんだけど、正直言ってあまりにも最低最悪すぎて、ふと、ああ、この国はちょっとこの地球の中でちょっと変わってるのかもしれないな、と思ったわけです。

日本人として嫌う日本と、地球人としてみる日本

実はそう思ったのは今回が初めてではありませんでした。
古代ローマの本を読んだ時に、「エトルリア(ローマより古い国)人はローマよりも、より愛国心が強い」というニュアンスのことが書かれていて(実際は、団結とかそいういう意味の言葉だったと思いますが、うろ覚え)、それを読んだ時に初めて、ああ日本人もそんな感じかもと思ったわけです。

そう考えてみると、「そういう国だ」という言い方で、まあ多少は何となくこの国の不可解な様子を少しは理解できるのかも?と思ったりもします。

そもそも、私は近年本当に日本が嫌いです。

特に最近の右傾化した日本はあまりにも見るに堪えないと思っていたし、政治は腐敗しているし、企業は腐敗しているし、もうめちゃくちゃ。その割に近隣の国々へのヘイトは野放し、キモすぎる国だと思っていました。

しかし、この間ローマから帰ってきた時に仲良くなった中国人の女の子と話をしたら、めちゃくちゃその子が日本のことが好きで褒められて、うれしいというよりは、「こんな糞みたいな国なのになんでそんなに褒めるんだろう」と思ったわけです。

で、思ったんだけど、よくよく考えてみれば私はものすごく「日本が嫌い」だけど、それって実は日本人だからこそ言っていい事だった気がするわけ。だって普通に考えて他の国の人が言ったらヘイトじゃん。

私が日本人だから嫌いだと言っていいってことは、それって相当びっくりするくらい私が自分で日本人である自覚が超強い、という事に他ならないわけです。

もし私が本当に無国籍な思想から日本を見た時には、まあダメなところもあるけどやっぱ変な国だな、と思うだろうな、と思ったわけです。

選挙を通じて考えたこと

そもそも、Twitterでいろんな「リベラル」が選挙前にはすごく怒っていた。

それに引きずられるようにして私も「リベラル」ぶって怒っていたんだけど、実際よくよく考えてみると、我々「リベラル」も相当「反リベラル」に対して自分の意見を押し付けてたよね。

例えば、多様性に関しても、まあ正直多様性に関しては今でももちろん認めるべきものだと思うんだけど、しかしそれを認められない日本人っていうのは、まあちょっと変わってるなあ、と思うと何となく全体像が俯瞰して見えてくるって気がする。

民主主義ばっかりが奉られる昨今ですが、アラブの春ははっきり言ってほとんど失敗したわけだし、世の中何が正解かなんか分からんよ。

もちろんリベラルや有識者っていう人たちはそんなこととっくに分かってて敢えて議論しているのだと思うから、それに関しては当然私も何も言えないし、議論が無くなったら世の中は終わってしまう。

ただ、私自身は、ふと、そういえば地球人として日本を見たら、すごい国だな、と思うわけです。もちろん悪い意味でもあるけど、まあいい意味でもあるのかな。支離滅裂な国だな、と思うけど。

もちろん、この国の行く先の事を考えると、その国の中で生活する人間としては心配なことは多々あるんですけどね。
当然の事ですが、少子化対策にしても男女差別にしても、具体的に見ていけばおかしいと思うことは非常に多いとは思います。

泣いている子供に舌打ちをするオッサンを見た時に、「日本はおかしい」と思うか、「オッサン、ストレスためてんだな」と思うことで、「子供にやさしくできないマインドを作り上げる日本て謎」と思うようにすると、争点が大きくなるから自分の気分的に非常にマイルドになりやすい。

マクロだけでなくてミクロとして考えてみても

まあ、社会的に見てとか、いろいろ言いましたけど、要するに「人それぞれだよね」という考え方をしっかりと持つことができたら、大きく分けていろんなストレスから解放されるのかもしれないなあ、と思ったのです。

で、そうやって考えてみると、それは大きな話だけの事ではなくて、割と近所の話でも同じことだと思うんですね、

例えば、一緒に働いている人とか、友達とか、家族とか、そういういろんな人々との関係を考えた時に、何やら自分と全然違う意見というか、かなりむかつくことがあった時に、「この糞野郎が」と思う前に、「この人変わってるな」とか、「そういう考え方があるんだな~」という風に思うことができると、まあだいぶ結構気分は楽になる。

自分をいじめてくるヤツに対しても、「不幸なのかな」と思うとか、「ストレスためてんだな」とか思う。

セカオワに出会ってからそういう風に考えているつもりだったけど、実はこれを実践するのは難しい。しかし、意外とそうやって考えてみると割といろいろ楽になるのだという事を発見しました。

もちろん、自分を思いっきりいじめてくるヤツとかに大してそれを考えるのは難しいし、私としてはヘイトスピーチとか活動するヤツに対して、「そういう人もいるんだなあ」とか考える事こそが結構難しい。

「人それぞれ」は問題を解決してはくれない

しかし、結局「人それぞれだよね」と考えることは、実は問題を何も解決してくれないし、場合によっては問題を悪化させる危険性もあると思います。

それでは人の意識はどんどん下がってゆくし、ヘイトは無くならないし戦争も争いもなくならないと思う。

しかし、自分さえ「そういう考え方もあるんだな」とか思えるようになると結構いろいろと楽だ、という話。

あと、そもそも本当に大きな事を考えてみると、結局誰もかれもが「人それぞれだよね」と思うことによって戦争が巻き起こったり人類が滅亡したりするような事態になったところで、ある意味「まあそれも運命の一つと捉えることで」なんて思うしかなくて、結局それってニヒリズムなわけですよね。

何にも解決はしてないんだけど、地球レベルで考えるときにそこには意味が生まれる。

人間が滅亡するのは勝手だけど、地球を道ずれにするのもどうかと思うよね。
だけど人間を生んだのは地球だから、共倒れになったらそれはそれで仕方のない事だよね。とか。

一体どんだけ話が膨らむんだ。ということで、以上。

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