NHKのEテレで毎月末の土曜の深夜にやっている、インテリによるインテリのためのディスカッション番組「ニッポンのジレンマ」今月は「死について」MCの古市憲寿氏が3人の著名人に話を聞きに行きました。

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「死について」どう考えていますか?

古市氏が話を聞いたのは、劇作家の根本宗子、小説家の羽田圭介、僧侶の小池龍之介の三名。

そもそもなんでいきなり「死について」なんか話を聞きに行くんだ??一体どういうきっかけがあるのか?という事だが、どうやら個人的に古市氏が今現在「死について」という事を考えているらしい。あまり詳しくは語らなかったが、どうも近しい人を亡くしたというようなことを言っていた。

古市氏は、生まれ変わりを信じているらしい。信じているというか、そういう風に考えるといろいろ楽になる。今生でなしえなかったことも、「また次があるし」という風に考えたほうが楽になるじゃん、というのである。

劇作家の根本宗子という人は知らなかったが、昔から死のことが怖くて仕方がなかったといっていた。他に何を言っていたのかは忘れた。

羽田圭介はよく知る作家だが現実主義者なので、死に関しても全く合理的な考えしか持っていなかった。死んだらおしまい、という事だ。
彼は芥川賞受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」でも人の死について掘り下げる作品を書いているが、そんな彼が言うには、「死というものをある程度意識していく中でできることをやったほうがいい」という風に言っていた。

僧侶の小池龍之介氏は、ちょっと笑っちゃうくらい合理的に達観していてさすがすぎ。
彼が言うのには、かなり平たく言えば、死んだら人間というのは終わりなんだから、そんな死について考えるなんて言うのは時間の無駄で、もっと有意義なことを考えたほうがいいというのだ。

その通りなんだけどあまりにもカラッカラに乾いていて本当に面白いし、この人の著書を読んでみたくなった。

私の子どもの頃の死生観

という事で、突如として投げかけられた命題について考えてみようと思う。皆さんは死あるいは生について考えたことがあるのだろうか。

私は、どちらかといえば劇作家の根本宗子と同じで、小さいころには本当に死が恐ろしかった。死は絶対に誰にも訪れる。人間の致死率は100%だ。絶対に自分も死ぬのだ、という事を実感して、夜な夜な泣いていたことがあった。
後から考えて、あたかも珍しい事のような言われ方をすることもあるが、実際は根本宗子も同じように感じていたし、確か作家の川上未映子もおんなじことを言っていた気がするので、別に珍しい事でもないと思う。

実は子供のほうがはるかに大人より哲学的なことを考えたりするものだから。

でもまあ当時はそんなことよくわからないからとにかく何もかもが怖かった。怖いものトップは戦争だった。戦争のことを考えるだけで眠れなくなった。
だから映画も怖かった。戦争映画やホラー映画は雰囲気だけでも参ってしまうほど怖かったし、普通にアクション映画とかでもちょっとでもシリアスなものになると怖くて眠れなくなってしまったほどだ。

普通の人よりもグロいものや怖いものが全然大丈夫(っつーか大好き)になってしまった今から考えれば信じられないことだが、とにかく小さい頃の私は何もかもを死に結び付けて恐れていたし、常に不安だったと思う。

現在のNITARIの死生観

その反動でというか、一人で無計画に海外旅行に行ってしまったり、孤独な状態に身を置いたり怖いもの(映画とかも含めて)を人よりもいくらでも受け入れて楽しくなってしまった現在の私は、小さいころよりもはるかに死というものが遠くなった気がする。
現在の私にとって、死は全く近しいものではなくなった。なんとも思わなくなってしまった。

例えば、古市氏はマンションから墓地が見えるのが嫌だという。私はその考えは全くなくて、一切なんとも思わない。死がそれだけ遠くにあるからだろうか?

本能的に私が「死」をどう考えているかというのは実は私にもよくわからないのだけど、私の理性の話をするならば、「死」というものをあまり特別視するのはよくないと思っている。
死っていうのは当たり前に誰にでも起こることなのに、あまりにもその事実をひた隠しにしようとする現代の傾向はいただけないな、と思っているというのが正しい言い方だ。

例えば、古代ローマの本などを読んでいると、今とは全く別の死生観を持っていることが分かる。死というものが現在よりも圧倒的に当たり前に横たわる「事実」であるという事だ。
古代の思想にならえとは言わないけど、老いにしても何にしても普通にあることなのに、何となく嫌がる風潮が私は嫌いだ。墓なんて言うものは、家と同じくらい普通にあるべきものだと思うわけだ。

今年、イタリアに行ったときに、古代ローマよりも歴史の古い古代エトルリアの地下墓所を巡ったのだが、一つ一つの墓穴に美しい絵柄が描かれていて、何となく明るくて愉快な気持ちになったものだ。「埋葬」は古代から続く人間の文化であるが、死を厳粛に重んじたがる現代の人々と違ってそこには故人を楽しく送り出そうとする姿勢のようなものを感じで非常に面白かった。

死を遠ざけることは想像力の欠如の要因にもなる

死を遠ざけるという事は、結果的に死を想像できない現状が生まれてしまうと考えられる。これは実は結構恐ろしい事だと私は思う。
死っていうのは意外と近くにあるという事に気が付かないと、人は案外簡単に命を落としたり死なしめたりするような気がするからだ。

戦争もそうだし、テロも(まあ、テロは死というものを分かっているからこその手段なのだろうが)発砲事件などもそうだが、銃を撃ったら死ぬ、とかそういう想像が、まあできているつもりなのかもしれないけど全然できていない現状が非常に恐ろしいと思う。

極端な例だが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)では、ヒトラーを指示したドイツ国民のどれだけの人間がユダヤ人の死を想像できたのだろうか、と思うわけだ。
アウシュヴィッツに行った時にも感じたことだが、人の死を感じるっていうのは、実はそう簡単なことではない。自分に近しい人が死ねばまだしも、そうでなければなかなか死を実感できないものだと思う。

私はアウシュヴィッツに行ってなお、だからこそなのか、あまりの物事の大きさに圧倒されて、というか正直よくわからなくなってしまった。
人にはある程度当たり前に死を向き合う時間があったほうがいいと思うのだ。

まとめ

まあ、結局のところ私には大した死生観はないし、ホラー映画も好きだし戦争映画も大好き、人が死ぬシーンとか生々しければ生々しいほど結構盛り上がるという変態かもしれない。

しかし真面目な話、僧侶の小池龍之介氏が言うように、あんまり死について考えても時間の無駄かなーというのが実際のところではあるが、とりあえず死っていうものをあんまり特別扱いしすぎないほうがいいよね、社会的には。と思うわけです。

小池氏ほど達観は全然できませんですけどね……

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